人は何かの集団に所属し、集団を心の拠り所にしながら生きています。
昔は家族、村、国がそれを担っていました。
戦後になると会社や学校がその機能を担うようになりました。
しかし、今それらは『居場所』機能を失っています。
そこで今、求められているのが新しいコミュニティです。
旧コミュニティの崩壊
人は大昔から集団に所属しながら生きています。
集団が外敵から守ってくれました。
集団の中にいれば仕事があり、衣食住も保障されました。
文化が共有され、楽しい催事もありました。
人間関係はその中で全て完結していました。
だから、人は昔から所属する集団を心の拠り所=居場所として生きてきました。
その最小単位は家族です。
その家族が集まってできたのが『ムラ』です。
大昔からあるコミュニティです。
ムラは戦後しばらくぐらいまでは人々の居場所でした。
しかし、高度経済成長に入ると、ムラから人が離れていき、ムラは人々の居場所としての機能をだんだんと失っていきます。
1990年代になると、ムラは文化も求心力も完全に失ってしまいます。
私は静岡の田舎の出身ですが、人々がだんだんとムラから離れていき、文化がなくなっていく様子を目の当たりにしました。
家族と会社
江戸時代〜戦時中の日本の『家制度』は『家父長制』と呼ばれています。
父親を家長として父親が家族の面倒を見ていく。
妻や子供達は父親を敬い、ついていく、そういう仕組みです。
戦後は、学校や会社が人々の居場所として大きな機能を果たしていくようになります。
1970〜1990年代には会社や学校が人々の居場所=コミュニティでした。
なぜかというと、日本の会社経営は家父長制を模範にしたものだったからです。
社員は社長を父親のように慕い、社長も家族のように社員の面倒を見る。
学校も先生はお父さん、お母さんのように子供達の私生活まで気にかけ、面倒を見る。
制度化されていたわけではありませんが、日本人の心の中は家父長制のままだったのです。
しかし、バブル崩壊以降、会社や学校は自分を守ってくれるものではないということが露わになっていきました。
大企業の倒産、リストラ、汚職、いじめ、学級崩壊…。
ムラも、会社も、学校も、人々の居場所ではなくなっていったのです。
コミュニティを選べる時代
その頃、ちょうどインターネットが登場しました。
これが人々の生活を大きく変えたことは言うまでもないでしょう。
コミュニティの視点からいうと、一番大きいのは
「近所、学校、会社以外の人とつながれるようになった」
ということです。
それまでは例えば「ラクロスが好き!」と言ってもなかなか同じ趣味の人と出会うことはできませんでした。
本屋さんに行ってなんとか専門書を見つけて、なんとか専門雑誌を手に入れて、小さーく書いてあるオフ会の情報を見つけ、勇気を持って参加する。
自分と同じ趣味の人と出会う方法はそれくらいしかなかったのです。
しかし、今は検索エンジンで「ラクロス」と検索すれば無限に情報を集めることができます。
そして、その中から自分で所属するコミュニティを選ぶこともできるようになってきました。
好きで選ぶ時代
昔から日本では我慢することが美徳でした。
自分はあれがやりたい、これがやりたい、あれが好き、これが好き
そんなのはワガママ。
生きてれば辛いことがあって当然。
辛いを抱えて生きていくことが辛抱。
自分の好きを追求しようとすれば、周りからこんな総攻撃を受けたでしょう。
しかし、時代は変わりました。
今は自分の好きを追求できる時代です。
好きを基盤にして働ける時代です。
逆に辛抱してやっているような仕事はどんどん廃れていきます。
コミュニティについて、「ムラの行事だから仕方なく…」ではなく、自分の好きを基準にして自分で選んでいける時代です。
インターネットの登場、そしてスマホの普及によって、それが可能な時代になってきたのです。
ここ数年、コミュニティという言葉をよく聞くのはそんな時代背景からではないでしょうか?